2019年4月10日。科学者たちが一枚の画像を公開した瞬間、世界中のニュースがその話題一色に染まりました。
オレンジ色に光るリングと、中心の黒い影。それは、人類が初めて直接撮影した「ブラックホールの姿」でした。
その画像を撮影したのが、イベント・ホライゾン・テレスコープ(EHT)です。「イベント・ホライゾン」とは日本語で「事象の地平面」——ブラックホールの周囲に存在する、光さえ脱出できない境界線のことです。その名が示す通り、EHTは事象の地平面のすぐ外側で起きている現象を観測するために設計されたプロジェクトです。
しかし、その画像が世に出るまでには、10年以上の準備と、地球規模の連携が必要でした。なぜこれほどの大仕事になったのか。その答えは、ブラックホールのサイズと距離の問題に直結しています。

ブラックホールはなぜ撮影が難しいのか
理由①:光が出ない
ブラックホールは、自ら光を発しません。それどころか、周囲の光さえ引き込んでしまいます。通常の天体は、太陽のように自ら輝くか、惑星のように光を反射して見えます。しかしブラックホールは、そのどちらでもありません。
では、EHTが撮影した「オレンジ色のリング」は何なのか。実はあれは、ブラックホール本体ではなく、その周囲で渦巻くガス(降着円盤)が放つ電波の輝きです。ブラックホールに落ち込もうとするガスは超高速で回転しながら摩擦によって加熱され、強烈な電波・光を放ちます。その中心に、光が脱出できない領域の影——「ブラックホール・シャドウ」が黒く浮かび上がります。
EHTが写したのは、「ブラックホールそのもの」ではなく、「その存在が作り出す影」です。
理由②:距離とサイズの問題
撮影対象となったのは、おとめ座の方向、約5,500万光年先の銀河M87の中心に潜む超巨大ブラックホール(M87*)です。質量は太陽の約65億倍、直径は約400億kmにもなります。
数字だけ見れば巨大ですが、問題は距離です。5,500万光年という距離の彼方にあるため、地球から見た視直径(見かけの大きさを角度で表した値)はわずか約40マイクロ秒角しかありません。これは「東京から月面に置いたゴルフボールを見分ける」のと同程度の細かさです。
通常の光学望遠鏡では到底届きません。電波望遠鏡を使うとしても、この解像度を得るには、口径が数千kmに及ぶアンテナが必要になる計算です。

「地球を一枚のアンテナにする」という解法
ならば、地球上に散らばる望遠鏡を同時に使い、一つの巨大な望遠鏡として合成すればいい——これが解決策の発想です。
複数の電波望遠鏡が同時に同一の天体を観測し、各地点で受信したデータを後処理で合成することで、「アンテナ間の距離に相当する口径を持つ仮想的な望遠鏡」として機能させる技術をVLBI(超長基線電波干渉法)と呼びます。アンテナが離れていればいるほど、解像度は上がります。
EHTは、この原理を極限まで押し進めました。ハワイ、アメリカ本土、メキシコ、チリ、スペイン、南極——地球上の8か所にある電波望遠鏡を同時稼働させることで、事実上「地球と同サイズの口径」を実現したのです。
到達した解像度は約20マイクロ秒角。これは、M87*のブラックホール・シャドウ(事象の地平面付近の影)を写し出すのに十分な値でした。
観測精度を支えた3つの技術的課題
地球規模の連携は、同時に巨大な技術的課題を生み出しました。
① 原子時計による時刻同期
各観測地点のデータを合成するには、受信した電波の「到達時刻」を極めて精密に揃える必要があります。EHTでは、各地点に水素メーザー原子時計を設置し、1億年に1秒以下の誤差しか生じない精度で時刻を同期させました。
② 観測波長の選定
EHTが使用したのは、波長1.3mm(230GHz帯)のミリ波です。この波長を選んだ理由は2つあります。一つは、ブラックホール周辺のプラズマによる散乱の影響が小さいこと。もう一つは、大気中の水蒸気による吸収が比較的少ないこと(そのためチリや南極など乾燥・高地サイトが必須でした)。
③ データ量とHDD空輸
観測で生成されたデータ量は、1か所あたり1日で約360テラバイト、全地点合計でペタバイト級に達しました。このサイズのデータをインターネット回線で転送するのは現実的ではないため、記録済みのハードディスクを物理的に飛行機で輸送し、マサチューセッツ工科大学(MIT)とドイツのマックス・プランク電波天文学研究所に集約しました。
南極のデータだけは、冬期(南半球の冬)は飛行機が着陸できないため、約6か月間、現地に保管され続けました。
なぜオレンジ色に見えるのか

EHTが撮影した画像のオレンジ色は、ブラックホール周囲の降着円盤が放つ電波の強度を、人間の目に見える色として表現したものです。電波は本来、目に見えません。画像処理の段階で、電波の強度が強い部分を明るい色(黄・橙・白)、弱い部分を暗い色(赤・黒)に対応させています。
リングが均一な明るさではなく、下側が特に明るく見えるのも理由があります。ガスが光速に近い速度で回転しているため、地球に向かって動いてくる側は光が強調されて見える(相対論的ビーミング)のに対し、遠ざかる側は暗くなります。あの非対称なリングは、一般相対性理論の効果が画像に刻まれた結果です。
ブラックホールのシャドウのサイズは、一般相対性理論が予測する値と誤差5%以内で一致しており、アインシュタインの理論を最も強力に検証したデータの一つとなっています。
2022年:天の川銀河中心のいて座A*
2019年のM87*に続き、EHTは2022年5月、私たちの銀河・天の川の中心に存在するブラックホール「いて座A*(エースター)」の撮影にも成功しました。

地球からの距離は約2万7,000光年。質量は太陽の約400万倍で、M87*と比べるとはるかに小さい部類に入ります。
この撮影は、M87*以上に困難を極めました。いて座A*はM87*の約1,500分の1の質量しかなく、ブラックホール周辺を回るガスの周回速度が速いため、観測中に構造が変化してしまいます。EHTチームは複数の観測日データを統計的に処理し、変動する構造から「平均的な姿」を抽出する手法を新たに開発してこれに対応しました。

アルマ望遠鏡の役割
EHTの観測において、チリのアタカマ砂漠に設置されたアルマ望遠鏡は、特に重要な役割を担いました。
66台のパラボラアンテナからなるアルマは、EHT参加局の中で最大の集光面積を持ちます。アルマの参加により、EHT全体の感度は飛躍的に向上し、最終的な画像の品質を決定づける存在となりました。日本の国立天文台(NAOJ)はアルマ運用のパートナーとして、観測・データ解析の双方で貢献しています。

ブラックホール・シャドウとは何か
EHTが写したのは、正確にはブラックホールそのものではありません。
ブラックホールの周囲では、落ち込んでいくガスが超高速で回転しながら摩擦で加熱され、強烈な電波・光を放ちます(降着円盤)。その中心に、光さえ脱出できない領域——事象の地平面の周囲で光が吸い込まれることで生じる暗い影が現れます。これを「ブラックホール・シャドウ」と呼びます。
オレンジ色のリングは降着円盤が放つ電波の輝き、中央の黒い領域がシャドウです。シャドウのサイズは、一般相対性理論が予測する値と誤差5%以内で一致しており、アインシュタインの理論を最も強力に検証したデータの一つとなっています。
EHTが示したもの
EHTは、単に「ブラックホールの写真を撮った」プロジェクトではありません。
地球上の望遠鏡を精密に連携させる技術、ペタバイト級データの処理手法、一般相対性理論の検証——これらをまとめて前進させたミッションです。今後はより高い周波数帯の導入や参加局の追加によって、さらに高解像度の観測が計画されています。
ブラックホールという「何も出てこない場所」を、地球規模の精密機械で映し出す。次世代のEHTがどんな映像をもたらすのか、注目が続いています。
私たちが夜空で見上げる天の川の中心にも、EHTが撮影したいて座A*が静かに存在しています。

参考文献
- Event Horizon Telescope Collaboration|First M87 Event Horizon Telescope Results
- NAOJ|天の川銀河中心のブラックホールの撮影に初めて成功
- NASA|Sagittarius A*: NASA Telescopes Support Event Horizon Telescope in Studying Milky Way’s Black Hole
- CHANDRA X-RAY OBSERVATORY|Chandra and the Event Horizon Telescope